豊岡・但馬の
民話昔ばなし

Folktails

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雅成親王とお待ち岬

今から約800年前の瀬戸のお話しです。
雅成親王といえば、鎌倉側から第四代鎌倉殿としてお迎えされようとした皇子ではございましたが、権力を朝廷に取り戻したいと考えていた後鳥羽上皇にとって、鎌倉側は滅ぼすべき相手でもあり、結局その話は流れ、その後に承久の乱へと突入していきます。
当時の執権でもある北条義時率いる鎌倉幕府との戦に敗れた後鳥羽上皇は、京の都から隠岐の島へ、渦中の雅成親王は但馬国(豊岡市高屋)に遠流となり、それにより2人は離れ離れになってしまいました。

父想いの雅成親王は、
『父上は元気にされているだろうか。
一目で良いからなんとかお会いしたい。』
と思いながら毎日寂しく暮らしておられました。

そんな親王殿下をみて、可哀そうに思われた村人が
『但馬の国の北の果てに「日和山」というところがあります。
その地では天気の良い日なら隠岐の島が見えるそうですよ。』
と伝えました。

それを聞いた親王はとても喜んで、父君に会うこと叶わぬのなら、せめて隠岐の島影と見ようと約5里離れている険しい道のりを何度も何度も通われるようになり、その度に見晴らしの良い岬でじっと父君のお戻りをお待ちになられました。
その岬が当ホテルロビーの正面に聳える「お待ち岬」です。
しかし、何度来ても隠岐の島すら見ることもできません。
日和山の高台にあった松の木にすがり、父君を想い、嘆き悲しまれる親王殿下のお姿が幾度となく見かけられたと言います。

そんな想いも虚しく、後鳥羽上皇は終生赦されることなく隠岐の島で生涯を閉じられ、お二人は二度と会うことはできませんでした。 風の強い日和山ではこの松に吹き付ける風の音が親王のすすり泣きにも聞こえ、いつの頃からか瀬戸の人々はこの老松を『お嘆きの松』『夜泣き松』と呼ぶようになりました。 (残念ながらこの老松は昭和61年の大雪で折れてしまい、その切り株しか見ることができません。)

雅成親王は後に赦免され、一度は京へ戻られますが、雅成親王を担いで幕府転覆を試みる企てに巻き込まれ、再び但馬国へと遠流になり、以後は京へお戻りになることは叶いませんでした。

  • ※雅成親王が父君のお帰りをお待ちになった『お待ち岬』。当ホテルのロビー正面に見えるシンボリックな岩山です。

  • ※写真中央は雅成親王をお祀りした『柳原神社』。当館より徒歩3分のところにあります。この祠の後ろにお嘆きの松がありました。

  • ※豊岡市高屋にある雅成親王陵墓。宮内庁管理となっています。お住まいになっていた黒木の御所跡も近くにあります。